昭和20年8月11日、
ソ連が国境線を越え、日本領だった南樺太に侵攻。
終戦を迎えた、8月15日以降も侵攻は止まず、戦闘状態が続いていた。
そんな樺太の最前線で、命をかけて使命を全うし、樺太真岡の地で散っていった若き女性たちがいました。
樺太について
1905年、日露戦争後のポーツマス条約で、北緯50度より南が日本領、北がソ連領と定められます。
自然豊かで資源も豊かな樺太へは、多くの日本人が移住しました。
終戦頃は、約40万人が暮らしていました。
林業や漁業などで栄えた樺太。
街は札幌のように碁盤の目状に区間されており、美しい街だったと言われています。
樺太侵攻
そんな平和だった南樺太にも、予想もしない出来事が起こります。
1945年8月9日、ソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄し、満州に攻め込みます。
そして、8月11日、ソ連が国境線を越え南樺太にも侵攻してきたのです。
南樺太では、民間人を巻き込む激しい市街戦が繰り広げられました。
終戦を迎えた8月15日以降も、侵攻は止むことはありませんでした。
停戦のための日本側の軍使が、射殺される事態も起こります。
樺太全土を占領するまで、ソ連の侵攻は止まらなかったのです。
電話交換手たちの覚悟
ソ連の対日参戦を受け、8月10日、樺太島民を北海道へ緊急疎開させることが決定しました。
高齢者、子ども、女性、病人を優先して、疎開させることとなりました。
この疎開を成功させるには、通信手段の確保が必要でした。
また、戦時下だった当時、電話交換業務は、国防用、緊急連絡用として、通信の重要な役割も担っていたのです。
当時の電話は、相手の番号を押せば自動で電話が繋がる、という今のような仕組みではありませんでした。
受話器を取ると、郵便電信局の電話交換手に繋がりました。
そして、繋いでほしい相手を交換手に伝え、交換手が手動で回線を繋ぎ、繋いでほしい相手に繋がる、という仕組みでした。
そのため、通信手段の確保には、電話交換手の存在が必要不可欠でした。
この交換手の担い手の多くが、下は10代からの若い女性たちでした。
8月16日、
真岡郵便電信局長は、
「女子職員は全員引き揚げるよう、そのため業務が一時停止しても止むを得ない」
と、命令を受けます。
局長はみんな喜ぶだろうと思い、その命令を女性交換手たちに伝えます。
返ってきたのは意外な反応でした。
女性交換手たちは自ら残る意志を示しました。
局長は、ソ連侵攻後に起こりうるであろう、掠奪や暴行等、悲惨な状況についても説明をしますが、それでも彼女たちの意思は変わりませんでした。
その彼女たちからの言葉を受け、局長は、
家族とも話し合う必要があるから、今日は残留者は決めない。
家族とよく話し合ってから、答えを聞かせてほしい。
と、伝えました。
結局、20名の女子女子交換手が残留することになりました。
8月19日からは、非常体制が敷かれます。
電話交換業務は、24時間業務のため、通常は3交代勤務でした。
しかし、19日からは残留した女子交換手は、2交代で業務にあたりました。
真岡郵便電信局に迫る攻撃
8月20日の早朝、真岡は濃い霧に覆われていました。
早朝5時半過ぎ、
「ソ連の軍艦が方向を変え、真岡に向かった」
との連絡を受けた班長が、仮眠中の交換手を起こし交換台に着かせ、各方面に緊急連絡を行いました。
郵便局長は急ぎ、郵便局へ向かいました。
しかし、途中、ソ連兵に捕まって、連行されてしまいました。
緊急連絡からおよそ1時間後、
ソ連軍艦が真岡港に現われ、ソ連艦隊からの艦砲射撃が始まりました。
次第に真岡郵便電信局も被弾するようになります。
交換手12名が、郵便局の2階で業務を続けていました。
本館には他の職員もいましたが、砲撃により彼女たちは孤立してしまいます。
次第に砲撃は激しさを増し、交換室にも弾丸が飛び込むようになりました。
そんな状況にも関わらず、交換手は今の状況を各地へ届けるため、ギリギリまで業務を続けました。
最期の時が…
激しい砲撃にさらされ、「もはやこれまで」と悟った交換手の班長が、用意していた青酸カリを服用し、自決。
次々と他の交換手も続き、7名が自決。
その後、交換手の1人が同じ樺太の泊居郵便局に、これから自決する、と連絡を入れました。
対応した泊居郵便局長は、
「死んではいけない。生きるんだ」
「何か白い布を入り口に出しておくんだ(ソ連側に降伏の意思があることを示すため)」
と、何とか思い止まらせようとします。
しかし、その交換手は、
「班長は、死んでしまいました」
「交換台にも砲撃が飛んできます。もうどうにもなりません」
「みなさん、おたっしゃで。さようなら…」
それから、呼びかけに答えることはありませんでした。
この時点で、4名が生存していました。
そのうちの1人が、同じ真岡郵便電信局の別の部署へ連絡。
自決を伝え、服毒してしまいます。
知らせを受けた男性職員が急いで駆けつけます。
生存していた3名のうち、2名を救出。1名はこの時点では、発見されていません。
しばらくすると、真岡郵便電信局にソ連兵が現われます。
最初は男性局員のみが応対し、女性はそのまま隠れていましたが、安全であると判断すると、救出された2名の電話交換手を含む4名の女性局員も姿を現しました。
男性職員の時計や万年筆などを取られましたが、それ以上のひどい行為が行われた、という記録は残っていません。
発見されていなかった電話交換手の残りの一人は、日本人男性に助けられていました。
真岡郵便電信局のその後
ソ連側に拘束されていた真岡郵便電信局長は、数日後、ソ連軍の将校の立会のもと、局内に入りました。
局長が目にしたのは、
交換手たちが、送受信器を耳に、プラグを手に握りしめ、最後まで他局からの呼び出しに応ずるために交換台にしがみついたまま倒れていた姿でした。
遺体の確認に立ち会ったソ連軍将校も、悲惨な室内の状況を目の当たりにして、胸で十字架をきって黙祷したといわれています。
1ヶ月程経つと真岡の町も平静を取り戻し、郵便局も業務を再開しました。
元の局員が引き続き就業しましたが、ソ連の局員も配置されました。
業務は先ずロシア語を学ぶことでした。
しばらくすると、ロシア語による電話の取次ぎを日本人局員により行えるようになりました。
給与は、日本時代よりも多かったが、ソ連人局員は更に高給だったと言われています。
ソ連人が業務に慣れるにつれ、日本人局員はソ連人の部下として配属されるようになっていきました。
さいごに
わたしが、この真岡郵便電信局での悲劇を知ったのは、2008年に単発ドラマで放送されていた
『霧の火樺太・真岡郵便局に散った九人の乙女たち』
をたまたま、試聴したことがきっかけでした。
わたしは、彼女たちは本当に死ななければならなかったのか、何とか避難して、生き残る道は、方法はなかったのか、と考えてしまいました。
しかし、そう考えるのは、わたしが後世の人間で、真岡郵便電信局たちが、ソ連兵からそこまで手荒なことをされていないことを知っているからかもしれません。
おそらくは彼女たちは、残留を決めた時点で、いざというときは、死を覚悟していたように思います。
砲弾が降り注ぐような死と隣り合わせの極限状態、ソ連兵から何をされるかもわからない恐怖もあったと思います。
そんな中、彼女たちは最後まで任務を全うしようとしていました。
彼女たちの尽力で、たくさんの命が救われたことと思います。
でも、上手く言えませんが、彼女たちの自決を手放しに礼賛して、美談として終わらせるのは、個人的には少し違うような気がしています。
しかし、最前線で命をかけて、最後の最後まで使命を全うしようとし、散っていった若き女性たちがいたという悲劇は、決して忘れてはいけないと思っています。
本日はここまで。最後までお読みいただき、ありがとうございます!!