1945年(昭和20年)8月15日。
ポツダム宣言を受諾し、玉音放送が流れ、日本は終戦を迎えました。
終戦を迎えた後も、日本の最先端では日本を守るために、必死に戦った日本人がいました。
もし彼らいなければ、日本は東西ドイツや南北朝鮮のように分断されていたかもしれません。
そんな重要な戦いであったにも関わらず、この戦いについては、あまり知られていません。
今回は、日本分断を阻止した「占守島の戦い(しゅむしゅとうのたたかい)」についてお伝えしたいと思います。
占守島の戦いとは?
1945年8月18日未明、千島列島の最先端にある占守島にソ連軍が上陸。
終戦を受け、武装解除中だった日本軍は自衛のため、これに応戦。
指揮官クラスの戦死者を出しながらも、日本軍は激しく徹底抗戦。
ソ連軍に大きな損害を与える。
日本軍優勢に推移する中、軍の命令により、日本は降伏を受け入れ、停戦。
日本軍の武装解除が行われた。
そもそも占守島ってどこ?
千島列島の最北端。
まさに北の守りの最先端。
という感じですね。。。
現在は、ロシアが実行支配しています。
灯台守がいるだけで、民間人はいません。
日本は、1951年のサンフランシスコ講和条約で、千島列島の領有権を放棄させられています。
放棄された千島列島の帰属は定められていないので、日本政府はこの地域の帰属は未定、という立場を取っています。
ソ連は北海道占領を狙っていた
終戦から約半年ほど前の1945年2月、ヤルタ会談が行われました。
アメリカのルーズベルト大統領、イギリスのチャーチル首相、そしてソ連のスターリンの間で行われた首脳会談。
この会談の中で、ソ連が対日参戦することを条件に、樺太と北千島をソ連の領土とする密約が交わされています。
遡ること4年ほど前、日本とソ連は「日ソ中立条約」を結んでいますが、対日参戦に向けてソ連は準備を進めていたのです。
ソ連は、1945年8月20日~25日の間に、対日参戦をするつもりでした。でも、アメリカによる日本への原爆投下により、日本の降伏が早まると判断し、対日参戦を繰り上げました。
8月9日に、満州や樺太にソ連軍が攻め込んできました。
1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受け入れ降伏したにも関わらず、ソ連の対日参戦は中止になることはありませんでした。
天皇陛下の玉音放送から3時間後、スターリンは千島列島の奪取命令を部下に下します。
そして、スターリンは、ルーズベルトの後を引き継いだアメリカ大統領のトルーマンに、千島列島と北海道の北東半分の占領を要求します。
しかし、トルーマンは千島列島の占領は認めましたが、北海道の占領については拒否しています。
ソ連軍に対し、徹底抗戦をする日本軍
8月18日未明、ソ連軍が占守島に攻め込んできました。
すでに終戦を迎え、武装解除を進めていた日本軍ですが、「自衛のため敵を撃滅せよ」との命令が下されます。
次々と上陸するソ連軍に対し、日本軍は徹底的に抗戦します。
日本軍の猛攻は凄まじく、ソ連軍は当初の予想に反して、思うように進軍できませんでした。
日本軍の士気は下がることはなく、優位に戦いを進めました。
ソ連側の発表では、
日本軍の死傷者約1,000名、ソ連軍の死傷者1,567名。
日本側の推計では、
日本軍の死傷者約600名、ソ連軍の死傷者約3,000名といわれています。
占守島の戦いに先立ち、日本が治めていた満州や南樺太の占領に成功してたソ連側は、占守島での作戦の成功を信じて疑いませんでした。
ソ連兵の中には、スターリングラードやベルリンでドイツ軍と戦った強者も多くいました。
「ヤポンスキー(日本兵)なにするものぞ」という勢いで乗り込んで来ましたが、ソ連側のほうが大きな損害を受けたのです。
当時のソ連政府の機関紙「イズベスチャ」は、
「占守島の戦いは、満州・朝鮮における戦闘よりはるかに損害が大きかった。8月19日はソ連人民の悲しみの日であり、喪の日である」
と論評しました。
日本軍がソ連軍に対し、優位に戦えた理由の1つに、「士気の高さ」があげられます。
日本軍にとって、占守島の戦いは、自国の領土を守るためという明確な目的がありました。
しかし、ソ連兵にとっては占守島は自国の領土ではありません。ましてや、日本はポツダム宣言を受け入れて、すでに降伏している国です。
ソ連兵も戦争が終わり、「やっと家に戻れる」と思っていた矢先に、すでに降伏している国に攻めるよう命令される。
この戦いに、積極的な意味は見いだせなかったのではないでしょうか。
停戦交渉
8月18日の正午頃、
「18日16時をもって攻撃を中止し、防御に転移すべし」
と司令部から命令が下されます。
そして、ソ連軍との停戦交渉を行うよう、命令が出されました。
8月19日、ソ連との停戦交渉が始まりました。
ソ連側の要求は、
「停戦、即時武装解除」
でした。
日本が優位に戦いを進めていたにも関わらず、事実上の「降伏命令」でした。
日本側は、停戦には応じるが、即時武装解除には応じられない、と交渉します。
満州や樺太に攻め込んだソ連軍が、日本人の民間人しかいない居住区域を攻撃したこと、民間人の持ちものを掠奪(りゃくだつ)したこと、婦女暴行をしたこと、
これらのことを知っていた日本側は、武器を放棄した瞬間、何が行われるかわからない不安もありました。
しかし、ソ連側は、停戦即時武装解除の主張を変えようとはしませんでした。
結局、司令部からソ連側の要求に応じるよう命令がでます。
そして、8月21日停戦交渉はひと段落します。
シベリア抑留
日本軍の予想外の抵抗にあったスターリンは、8月22日、北海道上陸作戦を中止します。
翌23日、
「日本将兵を50万人を抑留し、シベリアに集結させよ」
という命令を下したのです。
これは、
「日本軍隊は完全に武装解除されたる後、各自の家庭に復帰し」
と謳われているポツダム宣言に違反するものでした。
こうして、日本の将兵は、武装解除が終わった後も故郷に戻ることは許されず、シベリアに抑留されたのでした。
日本を守るために戦った人たちが、国際法違反のこんな不当な扱いを受けなければならなかったのか…
わたしはそのことを思うと、悔しくてやりきれない気持ちになります。
日本分断を阻止
スターリンは、もともと占守島を1日で攻略し、その勢いで千島列島を南下し、北海道までなだれ込むつもりだったと言われています。
日本側の徹底抗戦は、スターリンにとっては想定外でした。
占守島の戦いに予想外に時間を取られたことでや北海道にアメリカ軍が進駐したことから、北海道上陸を断念せざるを得なかっだのです。
その後、8月28日、スターリンは南樺太の部隊を択捉島に向かわせます。
アメリカ軍も進駐しておらず、占守島のような抵抗もなく、
択捉島、国後島、色丹島、歯舞諸島の北方四島をあっさり占領します。
そして、戦後70年以上、実行支配され続けています。
もしも、占守島があっさり占領されていたら、北海道まで占領されていたかもしれません。
一度占領されてしまったら、北方四島のことを考えると、返還される可能性は非常に低いと思います。
自衛のため、占守島で命がけで戦った人たちがいたからこそ、北海道占領、または日本分断を阻止することができた、とわたしは思っています。
しかし、この占守島の戦いは、教科書には出てきませんし、大きく取り上げられることもありません。
知らない人が多いように思います。
実は、わたし自身もこの戦いを知ったのは、最近でした。
初めて知った時は、どうしてこんな大事なことを、今まで知らないでいたのだろうと思いました。
日本の危機を救い、日本の分岐点となった戦いだと思います。
そして、何より日本のために、命がけで戦った人たちを歴史の奥に埋もれさせてはいけないと思いました。
1人でも多くの人に、占守島の戦いを知ってもらいたいと思い、この記事を書こうと思いました。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。