先日、映画「ボヘミアン・ラプソディ」の2回目を見ました。
「ボヘミアン・ラプソディ」は、2018年に公開された映画です。
イギリスのロックバンド・クィーンの1970年の結成から、1985年に開催されたライブ「ライブエイド」までを描いた、まさにクィーンの伝記的な映画です。
劇中の楽曲やライブシーンが素晴らしいのはもちろんですが、興味深かったのは、ボーカルのフレディ・マーキュリーの葛藤や闇の部分にも焦点を当てていたこと。
ちなみに、この記事は、思いっきりネタバレを含みますので、ご注意ください。
大スターであるフレディ・マーキュリーですが、コンプレックスを抱え、ずっと愛を求め続けた人でした。
映画の中盤、フレディの大事な人たちが、離れていってしまいます。
でも、コンプレックスを含めた本来の自分自身を受け入れたことで、最愛のパートナーと出会い、仲間たちと和解し、復活をとげることができたように思います。
1回目を見た時は、気付きませんでしたが、2回目を見て、コンプレックスを含めて、ありのままの自分を受け止める大切さに気づかされました。
映画「ボヘミアン・ラプソディ」のあらすじ
ペルシャ系移民の青年のファルーク・バルサラ(後のフレディ・マーキュリー)は、空港でアルバイトをしながら、音楽に傾倒する日々を過ごしていた。
とあるライブハウスで、ファンだったバンドのボーカルが抜けたことを知り、自らの加入を持ちかける。
初めはあしらわれるが、その場で歌い始めるファルーク。
歌声を聞いていたメンバーたちの反応が変わり、新メンバーとして迎え入れられる。
後のクィーンメンバーたちの出会いである。
ファルークはフレディと名乗るようになり、家族にも自分の名前は、「フレディ」だと宣言する。
フレディの父は厳格で、フレディとは折り合いが悪かった。
その頃、運命の女性であるメアリーと出会い、恋に落ちる。
バンド名を「クィーン」に改め、音楽活動をする中、レコード会社の目に止まり、デビューすることに。
フレディは、苗字も「マーキュリー」に改名する。
クィーンの曲は、ヒットし、国外でもツアーを行い、活動は順調だった。
そして、フレディはメアリーにプロポーズする。
しかし、多忙を極めメアリーに会えない中、フレディは自身の本来のセクシャリティに気づき始める。
フレディは、メアリーに「バイセクシャルかもしれない」と告げるが、メアリーからは、
ゲイであると指摘される。
フレディはそれでもメアリーと一緒にいたいと告げるが、メアリーはフレディとの婚約を解消する。
メアリーが去ってからは、孤独感から毎晩、パーティーを開いては、孤独を紛らわそうとしていた。
「ファミリー」と言っていたバンドメンバーたちも、いつしかそれぞれ家庭を築いていた。一層、フレディの孤独感は深まる。
フレディのマネージャーのポールは、フレディに言われるがまま、毎晩、パーティーを開き続け、酒浸りになるフレディ。
そして、ポールは、メアリーらの電話をフレディに取り継がなくなる。
そして、ポールに言われるがまま、フレディは高額のソロ契約を結んでしまう。
そのことで、クィーンメンバーたちとの確執が決定的になってしまう。
その頃、フレディはジム・ハットンという男性に出会う。
フレディは彼と付き合いたいと思うが、ジムは、
「あなたが本当の自分を取り戻したら、また会いましょう」と告げ、それっきりになる。
クィーンのマネージャーが、世界的なチャリティライブの出演を実現しようとフレディに連絡を取ろうとするが、ポールはフレディに情報を伝えない。
ずっと、連絡がつかないことを心配したメアリーは、ある日、フレディの元を訪ねる。
廃人のようなフレディの変わり果てた姿に驚くメアリー。
メアリーは、フレディいるべき場所は、ポールの元ではなくクィーンであり、「クィーンはフレディにとってファミリーなんだ」ということを強く諭す。
メアリーの言葉で、目が覚めたフレディは、ポールと決別し、クィーンに戻ることを決意する。
フレディはメンバーたちにこれまでの自分の行いを謝罪。再び、メンバーたちに受け入れられる。
そして、世界的なチャリティライブであるライブエイドへのクィーンの出演が決まる。
以前より、体調不良を感じていたフレディは、検査を受ける。
H I Vであることが、判明。
当時は、今ほど治療法が確立されておらず、不治の病であった。
フレディはメンバーたちに、病気のことを告げる。
衝撃を受けるメンバーたち。
フレディは、メンバーたちにこれまでと変わらず、普通に接して欲しい。
と伝える。
その言葉を受け、メンバーたちは、ライブエイドの成功に向けて、心を一つにする。
ジム・ハットンの言葉通り、自分を取り戻したフレディは、彼を探し出し、再会。
ライブエイドの当日、フレディは実家に寄り、家族にジムを紹介する。
父母も妹も、全てを理解した上で、フレディを受け入れる。
そして、フレディは、ジムやメアリーが見守る中、メンバーたちとライブエイドのステージに上がる。
フレディのコンプレックスとは何か、考察
自分の出自
映画の中では、詳しくは語られていませんが、フレディの両親はインド人です。
フレディは幼少期をインドで過ごしています。
その後、一家でザジンバル島(現タンザニア)に移り住みます。しかし、内戦が起き、フレディが十代後半の時にイギリスに移住します。
映画の中で、アルバイト先で、フレディがその容姿から、
「パキ(パキスタン)野郎」と差別的な言葉を投げかけられているシーンがありました。
移民だったフレディにとっては、イギリスでの生活は、差別されるような場面も多々あったのではないかと、想像できます。
かつて、インドやザジンバルは、イギリスの植民地や保護国でした。
フレディは元々、イギリス国籍だったようですが、実際にイギリス住み始めて、元々、イギリスに住んでいる人たちとは、どこか違う自分を感じていたのではないかと。
実際のフレディは、イメージに合わないという理由で、インド出身であることを隠したがっていたと言われています。
インド出身の話を持ち出すと、フレディが嫌がったので、メンバーたちも触れないようにしていた、という話も聞いたことがあります。
実際、フレディは、「ファルーク・バルサラ」→ 「フレディ・マーキュリー」と改名しています。
こういった行動から、出自にコンプレックスを抱いていたと想像できます。
映画の前半では、名前を変え、自分のコンプレックスと決別し、新しい自分を作りあげていこうとしているように感じました。
そのための改名だったのではないかと。
自分のセクシャリティに対する葛藤
おそらくフレディを語る上では、避けては通れないと思います。
映画の中でも、重要な位置付けでした。
フレディ自身は、公表してはいないようですが、バイセクシャルだったようです。
記者会見のシーンで、記者たちが必要以上に、フレディの性的嗜好について聞き出そうとするシーンが印象的でした。
フレディは、ぶち切れてしまうわけですが。
これは昔から、フレディ自身がずーっと、葛藤してきたことだと思います。
欧米は、日本よりもLGBTへの理解が進んでいるイメージですが、フレディの頃は、まだまだ風当たりが強かったようです。
フレディ自身も本当の自分がわからない
自分はどうして、他の人と同じじゃないのか
当時の社会的な風潮から、なんとなく後ろめたい
そんな気持ちを持ちながら、葛藤し続けていたのではないでしょうか。
フレディ自身も葛藤していた核心部分にズカズカ入りこもうとする、記者が許せないのも当然です。
みんなの当たり前と違う、というのは、怖いことだし、自分が悪いことをしているような気持ちを持ってしまうように思います。
わたし自身は、一人っ子であることがコンプレックスでした。
わたしが子どもの頃は、兄弟が3人の家が多くて、一人っ子って、少なかったです。
一人っ子と知られるだけで、ほぼ初対面みたいな人たちに、
・甘やかされ育ってる
・わがまま
とか、レッテルを貼られていました。
それが、すごく嫌で、兄弟の話題にならないように避けてきました。
みんなは当たり前に兄弟がいるのに、自分だけなぜいないんだ⁇
自分がみんなと違うことが嫌で、自分が責められているような錯覚に陥っていました。
自分の努力とかで、どうにかなるものではなく、受け入れていくしかないんですね。
でも、人と違うということは、それだけで不安だし、イメージだけで一括りにされて、レッテルを貼られるのもすごく悔しいことです。
フレディももしかしたら、ゲイやバイセクシャルというだけで、一括りにされて、勝手にレッテルを貼られるのが嫌だったのではないでしょうか。
自分自身を受け入れることで、輝ける
フレディは、若い頃から出自やセクシャリティのことなどで、葛藤し続けていたと思います。
メアリーと上手くいっていた時は、メアリーがフレディの全てを受け入れ、愛してくれていた。
ただ、自分のセクシャリティが原因で、メアリーを失ってしまった。
もう一つのフレディの居場所であった、クィーンもメンバーとの距離ができ始めていた。
映画の中盤、フレディが求めていたのは、かつてのメアリーのように、全てを受け入れ愛してくれる存在だったのかもしれません。
孤独を埋めるため、毎晩、パーティーを開き、たくさんの人に囲まれても、孤独はなくならなかったのです。
そこに集まってくる人々は、フレディの富と名声に集まってくる人々だったからです。
そんな頃に、フレディが出会ったジム・ハットンの言葉に、わたし自身も考えさせられました。
フレディはジムを気に入り、付き合いたいと思うのですが、ジムは、
「あなたが本当の自分を取り戻したら、また会いましょう」
と言い、いなくなります。
ジムはフレディが惚れるのも納得の、素敵な人なんですよ。
なんだか、わたしまで惚れそうになりました。笑
ちょっと、話が逸れましたが、
誰かに愛してもらうことで、自分自身を価値を見出だすとしたら、それは、他者に輝かせてもらっている状態なのかなと。
では、自分の力で輝くには…
まずは、コンプレックスを含めた自分自身を受け入れ、自分自身か認めてあげることなのではないかと、思うんです。
自分を受け入れることで、少しの光なのかもしれませんが、輝き始めるんじゃないかと思います。
自分が輝き出すことで、自分にふさわしい人との縁ができていく。
と、フレディとジムの出会いのシーンから、そんなことを考えました。
だから、すぐにジムと付き合っていたら、上手くいかなかったのかもしれません。
映画の終盤、フレディが家族にジムを紹介するシーンは、フレディがコンプレックスも全てを受け入れたことが表れているように感じました。
家族は、自分自身の出自というコンプレックスと直結している存在です。
でも、その家族にありのままの自分をさらけ出したということは、フレディが自分の全てを受け入れ、生きていくことを決意した表れのように思いました。
厳格な父も何も言わず、フレディの全てを受け入れます。
それは、フレディが幸せそうに輝いていたからではないでしょうか。
わたしも人の親になって思いますが、親なりに子どもにこうなってほしい、という理想はあります。
でも、自分の理想とは違う方向に進んでも、本人が幸せいっぱいなら、それが一番なんです。
フレディパパもそんな気持ちだったのではないでしょうか。
このシーン、めちゃくちゃ良いシーンで、大好きです。
ただ、この時のフレディは、H I Vに感染していて、先が長くないこともわかっていた。
それでも、フレディはとても輝いている。
全てを受け入れ、音楽という自分が為すべきことに邁進していくと決めたから。
良いシーンなんですが、その後を知っていると同時に切なさもこみ上げてきてしまいます。
最後に
フレディは、クィーンという軸を取り戻し、自分自身を受け入れることで、最愛のパートナーと出会い、家族との絆も取り戻しました。
映画「ボヘミアン・ラプソディ」を見ていると、コンプレックスを含めた自分自身を受け入れることの大切さに気づかされます。
そして、本当の自分を押し殺す必要はなく、自分らしく生きていっていいんだ、と見終わった後に、勇気をもらえました。
本日はここまで。最後までお読みいただき、ありがとうございました!!