海籠り志カウンセラーのみやです。
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わたしの好きな歴史上の人物の1人に「豊臣秀吉」がいます。
低い身分から天下人にまで登りつめた、日本で1番出世した人物とも言われています。
欲しいものを全て手に入れたかのように見える秀吉ですが、実は、天下人になった後もコンプレックスの塊でした。
自分の生まれという、努力や知恵ではどうすることもできなかったことが、秀吉の最大のコンプレックスで受け入れられずにいました。
結果的にそのことが、豊臣家の滅亡につながったのではないか、とも考えられるのです。
秀吉が自分の生まれにコンプレックスを持っていたことがわかるエピソードがいくつかあります。
秀吉の側室は…
秀吉は、側室がたくさんいました。
そのほとんどが大名の娘や、昔から名家の娘など、身分の高い家柄の女性でした。
有名どころをあげると
織田信長の姪で、浅井長政とお市の娘の淀殿、
織田信長の娘、
織田信長の弟の娘、
前田利家の娘、
鎌倉時代から続く名門・蒲生家の娘、
名門・京極家の娘
身分の高い女性を好んで側室に迎えていました。
そうして、自分のコンプレックスを解消しようとしていたのでは、と言われています。
経歴を書き換えた…
秀吉が天下人になった後に、命じて書かせた書物からも、秀吉のコンプレックスがうかがえます。
秀吉が書かせた「関白任官記」には、秀吉の母・大政所の父親は、「萩中納言と呼ばれる貴人」と書かれています。
ただ、当時の公家に「萩中納言」という人物は存在しません。
また秀吉は、母が宮仕えしたときに天皇のお手付きになり、身籠った子が秀吉だとも…。
秀吉自身も、自分は天皇の落胤だと匂わせるような発言をしていました。
こういったエピソードから、自分の生まれにコンプレックスを持っていて、必死に書き換えようとしていたことが、うかがえます。
この当時、家柄や血筋は、現代と比べものにならないくらい重視されていました。
ですので、コンプレックスを書き換えようとするのは、権威や箔を付けるために仕方のないことかもしれません。
天下人なら、なおさらです。
しかし、ここからご紹介するエピソードは、ショッキングなエピソードなので、秀吉のイメージがガラッと変わってしまうかもしれません。
名乗り出てきた兄弟に対し…
宣教師のルイス・フロイスが書き残した「日本史」の中に、次のようなエピソードがあります。
1人の若者が、20〜30人を従えて、秀吉のいる大坂城に現れました。
その若者は、自分は秀吉の弟だと名乗っていました。
周囲の人々も、秀吉の弟に違いないと確信していました。
秀吉は自分の母に、その若者について、強く問いただしました。
秀吉の母・大政所は、その若者を息子と認めるのを恥じ、生んだ覚えはないと言ったのでした。
秀吉は母親の言葉を聞くとすぐさま、その若者と若者にお供してきた人々を斬首してしまいました。
そして、その首は晒されたのです。
自分の姉妹を呼び寄せ…
さらに、秀吉はこの若者以外にも、自分の知らない兄弟がまだいることを耳にします。
その兄弟は貧しい農民の姉妹でした。
秀吉は、少年時代から家を出ていて、母とは離れて暮らしていました。
秀吉の母は、3回以上の婚姻歴があると言われていて、秀吉が知らない兄弟がいることは不思議ではありませんでした。
秀吉は、姉妹に「それなりの待遇を用意するから」と伝え、自分の元に呼び寄せました。
姉妹たちは秀吉に会うために、できる限りの準備をして、身内を伴い秀吉のいる京へ向かいました。
しかし、京へ入るやいなや捕らえられ、身内も一緒に斬首されてしまったのです。
秀吉が姉妹を呼び寄せたのは、自分の知らない貧しい血筋の兄弟を消してしまうためだったのです。
豊臣家滅亡のきっかけが…
わたしはこの兄弟に関するエピソードを知り、秀吉の甥の「関白・豊臣秀次の切腹事件」も秀吉の自分自身の生まれへのコンプレックスが影響しているんじゃないか、と感じています。
関白だった豊臣秀次は、秀吉の姉の子で、叔父と甥の関係です。
なかなか自分の子恵まれなかった秀吉にとって、数少ない身内の1人でした。
秀吉に子どもができるまでは、事実上の後継者として、扱われてきました。
そんな秀次も秀吉の命で、悲しい最期を遂げてしまうのです。
秀次が暴君だった、秀次がクーデターを起こそとしてた、秀吉に子どもが生まれたことで、後継者扱いしていた秀次が邪魔になった、など。
たくさんの説がありすぎて、はっきりした理由は今もわかっていませんが、秀次は出家させられ、高野山に追放された後、切腹となっています。
そして、その首は三条河原に晒されました。
さらに、秀次だけでなく、妻や子、側室も含めた秀次の一族も処刑されたのです。
信長に仕えていた頃の秀吉は、敵対する武将を攻め滅ぼそうとするのではなく、降参する者には、命を助け、自分の配下に加えたりしていました。
そんな秀吉が、自分の甥と妻子たちまで処刑してしまうのは、どういう気持ちだったのか、理解できませんでした。
自分の身内だからこそ、通常より寛大な処分にする場合が一般的には多いからです。
それに、なかなか実子に恵まれなかった秀吉にとっては、秀次は、次世代の豊臣家を支えてくれる数少ない貴重な成人男子でした。
わたしは、今回紹介させていただいた秀吉の生まれに関するコンプレックスのエピソードから、秀吉は自分の血筋の身内だからこそ、ここまで徹底的に一族を処刑できたのではないかと、考えました。
自分の血筋を打ち消すために、姉妹を呼び寄せた時のように…。
生まれのことをコンプレックスとして抱え、命じて書かせた書物でも、自分の過去を書き換えようとしていた…。
秀吉の生きた姉の子で、自分と同じ血筋であった秀次だからこそ、容赦しなかったのではないかと思うのです。
実は、信長に仕えていた頃の秀吉は、周囲に対し自ら「自分は低い身分の出だから」と言うこともありました。
生まれについて、コンプレックスには感じていたけど、そのことを受け止めながら、折り合いをつけながら進んでいたのだと思います。
でも、天下人になった後の秀吉は、自分の過去を書き換え、血の繋がっている兄弟の存在もなかったことにしようとし、まるで違う自分になろうとしているように思えます。
秀次一族が、いなくなったことで、豊臣家には年老いた秀吉と幼い秀吉の子(豊臣秀頼)だけが残されました。
秀吉は自分の死の間際、徳川家康に「秀頼を頼む」と必死に懇願しました。
秀吉には、我が子を託せる身内はいなかったのです。
秀吉が亡くなったのち、関ヶ原の戦いが起き、豊臣家の家臣団は分裂しました。
さらに、大坂冬の陣、夏の陣で、徳川家康によって、豊臣家は滅ぼされ、秀吉の子・秀頼も自害したのでした。
豊臣家という存在は、この世界から消えたのでした。
歴史にはもしもありませんが、もし、秀吉の甥・秀次やその一族が生きていたら…
もし、秀吉が自分の血縁者を大事にし、一族として優遇していたら…
豊臣家を支えてくれる身内が増えれば、より盤石な体制を築くことができたのではないか。
短期間で滅亡することはなかったのではないか。
そんなふうに、思えてならないのです。
そんな秀吉のエピソードから、本当の自分に蓋をして、違う自分になろうとすると、結局は、悪い方向に進んでいってしまう、ということをお伝えしたいと思いました。
秀吉の魅力の一つに、低い身分から天下人まで登りつめた、ことが挙げられます。
けれども、秀吉にとってそのことは最大のコンプレックスでした。
自分にとってコンプレックスでも、実は、最大の魅力だったりするのです。
改めて、ネガティブは魅力、ということも実感しました。
本日はここまで。最後までお読みいただき、ありがとうございました!!