祖父から受け継いだもの…

海籠り志カウンセラーのみやです。本日もお越しくださり、ありがとうございます!!

8月15日…

この日は、日本にとっては忘れることのできない、「終戦の日」です。

終戦を迎えた時、日本の人々はどんな気持ちだったのか…

戦後生まれのわたしには、想像もできないと思います。

それでも、わたしなりに想いを巡らせますと、戦争が終わった安堵感、安心感ではなく、むしろ絶望感や不安の方が大きかったのではないでしょうか。

日本が負けた…

日本が降伏した…

占領軍がやってくる…

これが意味することは何なのか…

自分たちが命がけで守ろうとした日本は、一体どうなってしまうのか…

自分たちの生活はどうなってしまうのか…

一体、どうやって生きて行けばよいのだろうか…

それでも、お腹は減る。

生きていかなきゃいけない。

子どもたちを食べさせていかなきゃ、いけない。

そんな想いから、戦後の混乱と絶望、不安の中を必死で生き抜き、子どもたちを育てていたのではないでしょうか。

そして、豊かで平和な日本を築くことに繋がっていった

そんな祖父母世代には、尊敬と感謝の気持ちでいっぱいになります

祖父は戦争に行っていて…

わたしには父方、母方と2人の祖父がいます。

2人とも戦争に行っています

父方の祖父は軍人でした。

父方の祖父のエピソードから、自分の命を大切にし、何があっても生き抜くことを教わりました。

母方の祖父は、軍人ではありませんでした。

赤紙(召集令状)が届き、戦地へ送られました

祖父が送られたのは、中国でした。

詳しいことはわからないのですが、祖父の部隊は中国の山中で敵兵に包囲され、2、3日身動きが取れないという、絶対絶命の状況もありました。

そんな状況も乗り越え、無事に帰ってきています。

働き者だった祖父

祖父の戦争体験が、祖父の人生観にどのような影響を与えたのかは、聞く機会がなかったので
わかりません。

わたしの知っている祖父は、怒ると怖いですが、基本的には温厚な人で面白いことがあると、ケラケラ笑う人でした。

これはわたしに限らず、祖父を知る人が全員、口を揃えて言うことですが、とにかく働き者でした。

と言っても、仕事人間の亭主関白ではなく、外でも一生懸命に働き、家の仕事も一生懸命にしていました。

母が里帰り出産していた時、新生児のわたしの沐浴を毎日していたのは祖父でした。

祖母は身体が弱く、病気がちだったので祖父は、そんな祖母をいつも気にかけていました。

子どもの頃、祖父だけ遊びに来てくれたのですが、祖母が心配だからと泊まらずに帰ってしまったこともありました。

祖父から受け継いだもの

そんな祖父は80歳過ぎても元気で、働きに出ていました

子どもの頃のわたしは、おじいちゃんは60歳になったら引退(定年)して、家でのんびりと過ごすイメージでしたので、祖父の生き方が不思議でした。

母の話では世代的に年金もそれなりにもらっていたようですし、蓄えもしていたようでした。

そう感じたのは、わたしを含め孫が5人いましたが、それぞれが進学する時に、かなりまとまったお金をくれたりしていたからでした。

お金のために仕方なく働いていたわけではありませんでした

確かに、祖父の様子を見ていると、仕事のストレスや悲壮感は感じられず、活き活きと仕事に行っていました。

働くことが生きがいになっているようでした

だからなのか、仕事から帰ってからきても、変にぐったりして動けなくなるようなことはなく、テキパキと家の仕事もしていました。

子どもの頃は、祖父宅に連泊することが多かったので、そんな姿が記憶に残っています。

これはあくまでわたしの推測ですが、戦争で死ぬかもしれない、絶対絶命の状況を乗り越え、生きて帰ってきた祖父は、家族を大事にしながら、精一杯生きようと思ったのではないか、と思っています。

自分のため、家族のため、日本のために、身体が動く限りは一生懸命に働こう、そんなふうに思っていたのではないかと、感じます。

それが祖父の生きがいであり、志だったのではないかと…

家族を大切にしながら、活き活きと働くこと…

それはわたしが、ずっと目指してきた生き方、そのものでした。

幼い頃に見ていた祖父の姿が、わたしのお手本として、自然と受け継がれていたことに最近になり、気づきました

生涯現役だった祖父の生き方は、本当にかっこよくわたしも身体が動く限りは、働きたいと思っています

でも、生涯現役を実現するには、ストレスだらけで嫌々やっている仕事では、できません。

やりがいをもって、活き活きとできるお仕事をしていくことが大切になってきます

祖父はずっと同じ所で働き続けていたわけではなく、いろいろな仕事をしていました。

わたしが知る限りは、

旅館の経営

国鉄(現在のJR)の職員

診療所勤務

などです。

他にも、いろいろな仕事をしていたと聞いています。

一番最後は、ボブスレーの係員をしていました。

そんな祖父の生き方を見ていると、同じ所に我慢してい続けなくてもいい

自分が活き活きと働ける仕事をしていくことで、結果的に長くお仕事ができ、経済的な安定と心の安定、両方が実現できると感じています

そんな先人たちの志や意志を継ぎ、私たちも、生きがいを持って活き活きと仕事をしていく人生を、叶えてみませんか。

未来型*夢の降るみち

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